川崎で一人住まいの頃

私は酒が嫌いでないので、大人の仲間入りです。

格好をつけるためにお酒を楽しく飲むことです。

アルコールを飲むと人が変わるので気をつける、お酒の飲みすぎは二日酔い、お酒は芍薬の長、歳に合った飲み方になりました。

 

私は川崎市昔は高津区で今は宮前区馬絹1959番地新築2件長屋に一人で住み、夜になると家に友達がたくさん遊びに来ました。 

 

昭和38年頃、館山三芳村の土地の話は、瀬田の水道屋で高橋さんの実家です。

うちの親父が土地を分けて貰い、飛び飛びで、全部で6反部です。

 

会社に仕事が無いときは三芳村にNTK5ショベルと加藤のHD350を運び、三芳村へ行くのは大変です。

泊り込みで3日間みかん畑を作り、みかんを植えました。

毎年みかん畑に肥料をまき、5年目でみかんができました。

帰りは乗用車のトランクがみかんの重みで下がってました。

フランスのY35ユンボが、今は日本の油圧ショベルです。

昭和37年に三菱重工がフランスから輸入したY35のユンボメーカーで8tクラスで、使いづらいのを日立建機が手と足でペダル式に改良して使いやすくなりました。

 

昭和40年に9tクラスの油圧ショベルUH03を作り、2年後にUH06油圧ショベルを作り、クレーンの足回りです。

バケットの量が0.6m3です。4年後に20tの油圧ショベルUH07で足回りがブルドーザーと同じです。

 

大型6tダンプカーの時代からボンネットの8tダンプカーの時代へ。

2年後の11tダンプはキャブオーバーの時代でエンジンは220馬力の引きずりです。

昭和40年、ベトナム戦争

国道246号の新道工事で玉川橋の立ち退きで昭和40年に川崎市宮前区に住所が変わりました。

 

昭和40年頃は川崎市高津区野川の土地350坪を坪10万円で取得したが、資金繰りがうまくいかず、合計で借金が7千万円ありました。

 

昭和40年にUH03油圧ショベル9tクラス、加藤HD350の時代作り、03バケット後からHD550油圧ショベルのバケットUH0.6に足回りはクレーンと同じです。

 

昭和42年頃は11t積みTEのダンプカー180馬力で荷台にシートが掛けていない時期で、車の台数は少ないときでこの時期の新車は購入のときに荷台に50cmの差し枠が付いていました。

平塚七夕を見学のときにパトカーに捕まった話

昭和39年の10月10日に東京オリンピック開催です。

 

いすゞ1600ccGTベレット入れ替えで、コロナの新車1600GT5、ヤマハのエンジンです。

 

午後仕事が早く終わり、18歳の従兄弟と2人で東名川崎インターから入り、平塚の七夕を見に行く途中のことです。

トヨタコロナ1600GT5エンジンはダブルオーバーヘッドカムなので、回転数の上るのが早い。

アイドリングの時は運転席がひどく揺れました。

川崎インターで乗り、横浜インターを過ぎると、厚木のトンネルを出たところで、バックミラーを見ると、赤いランプをつけたパトカーが見えました。

 

そのときのスピードは100km/hまで落ちていましたが、パトカーが前に止まり、おまわりさんが来て、いきなり、お前たちどこから追っかけてるのか知ってるのか?!と怒鳴られました。

スピードは何キロ出していたのかと聞かれ、さあ分かりません。おまわりさんが分からないほど出していたのかとカンカンです。

30分くらい説教をされ、運転免許を返してもらうときに、太陽がまぶしくて薄めになりました。

おまわりさんには笑っているように見えたのでしょう、まだ反省していないと怒られ、隣で従兄弟はくすくす笑ってました。

大変な一日でした。

昭和42年、結核にかかる

昭和42年、21歳の時でした。宮前区馬絹の二軒長屋で一人で住んでいた時に、夜10時ごろ、咳をしたら口から血が出てびっくりしました。

朝一番で町田の病院で胸の写真の結果で肺に穴が開いてます。

世田谷区千歳船橋の有隣病院を紹介してくれました。

 

有隣病院は木造の平屋作りで学校みたいで6人部屋で食事も一緒です。

長い患者は12年、短い患者で2年です。

私みたいに背中に穴があると、8年かかると医者に言われました。

お先真っ暗です。

 

そこで、気分が変わるように国井さんが陶芸を一年間教えてくれました。

粘土をこねる、ロクロを回し、釜で素焼きして絵付け、本焼きです。

大変勉強になりました。

 

有隣病院の浅羽先生が推薦して久我山の外科病院の久保田先生に当時は肺結核で一週間に15人オペをしてました。

私はオペを行い、体を慣らしながら草野球をして半年間養生生活をして9月に退院しました。

昭和43年、府中の3億円事件

昭和43年頃の冬は、朝はバケツの水は凍り水道管の塩ビ管は破裂します。

 

会社の事務所

昭和48年頃に日曜、事務所に置いてある25tトレーラーで重機HD550の運搬で勝どき橋近くの石川島第三工場からHD550を引き上げです。

この時に家族全員で乗り楽しい半日です。

 

昭和52年頃には燃料を運ぶドラム管200リッターに雨水が入る。

昔は工事現場にブルドーザーとか油圧ショベルの燃料を運ぶのに4駆の1tトラックでスタンドに行きドラム管4本詰めで工事現場に向かうのです。

 

16tブルドーザーと25t油圧ショベル23t油圧ショベル3台入れると750リッターです。

ドラム管の残りは現場に置きますが、ネジはきちんと締めないとドラム管の回りのつばの方が高いので雨水が入りやすい。月1回はブルドーザーと油圧ショベルのドレンを開けます。

今はドラム管は使わずタンクローリーで燃料を運ぶ会社にお願いします。

昭和63年10月に宮前ロータリークラブができる時にチャーターメンバーとして入りました。

初代会長は聖マリアンナ病院の前田医師です。

 

お台場で使っていた、重さが50tの油圧ショベルで大型ダンプカーに土砂を乗せると、バケット3杯で山盛りになります。

 

昭和63年頃に日立建機のUH20油圧ショベル(重さ50t)の中古を柳田建設で買い、バケットが2m3を幸洋車両の工場でバケットの幅を広げて3m3にして、あとは看板と全面塗装です。

油圧ショベルUH20の重機、運搬はバラして私がトレーラーと10tトラックで溝口の池ヶ谷鉄鋼の跡地まで、大型ダンプは土砂がバケット3杯でこぼれます。

浮島の捨て場でダンプを上げても土砂が滑りません。ダンプのボディにくっついて落ちなかったのです。

 

昭和63年頃、新しく川崎市高津区の一部が宮前区に変更になり、新しく宮前警察ができ、宮前交通管理者会のお手伝い。

 

昭和63年頃に大型ダンプの無線機のアンテナ25mを3人で立てました。

下で組み立ててロープを使い、上とアンテナの柱を伸ばして鳶の千葉さんと親戚の電気屋さんと私です。

 

6月の時に全く仕事が無く、北海道からの出稼ぎの2名、大工の手伝いの経験がありますと聞いたので、コンクリートの木枠のコンパネを2枚重ねて3枚縦につなぎ、後はスクリュー釘で止め墨壷で船の床板を作り、船の横板は右と左に墨壷を書きました。

  事務所が8坪から新しく17坪の事務所を新築しました。

山留用 H鋼打ち機の開発

平成元年は、川崎市高津区より分かれて新しく宮前区の宮前警察ができました。

宮前交通管理者会の役員になりました。

 

有限会社原住商店の時は皆から専務と呼ばれていました。

平成元年1月から、原住土木株式会社の代表になりました。

会社のマークを作るのに、私がダンプの絵を作りました。

 

 

平成3年は、日立建機にお願いしてUH12ロープ式テレスコを開発しました。 

 

ヤナセ本社で二人乗りベンツのS500を新車で電話1本で買いました。

 

その頃のニュースは平成3年6月、雲仙普賢岳で火砕流で志望者46名です。